これまでに日本の侍は男の中の男としてのイメージを持たれてきていましたが、侍が主君からの自決を命じられて行う「切腹」であっても、いや「切腹」を運命として受け入れて行っているからこそ女性的な生き方としてもりけんさんが書かれているのは、本当にこれまでに武士、侍に対して持たれることのなかったイメージであると思いました。大河ドラマの「風林火山」で山本勘助が原美濃守との真剣での勝負で、船上での勝負を申し出て、そこで太刀での勝負に勝算が無かった勘助は対戦相手の原美濃の船を沈めてしまうという策に出るのですが、ここで観戦していた武田家臣のリーダー格の甘利備前守が勘助に「おぬしはそれでも侍か!」という罵倒を浴びせていたり、「ラストサムライ」では明治維新で廃止された武家制度に抗して反乱を起こした西郷隆盛をモデルとした武将が最も侍らしい人物として描かれてきていたりして、これまでにもりけんさんが侍の生き方に見出した女性性という視点で侍が着目されるということは本当に無かったと思います。それでも、今回の東日本大震災において、被災の中で甚大な被害を受けながら、自分のご家族の安否も不明な中で他の被災者のために働いたり、取り乱すことなく長い配給の列に並んで、命からがらで救助された中でまだ瓦礫の中にある他の人たちのことを最初に心配する人、原発事故で放射能被曝の危険の中で決死の復旧作業に従事した作業員の人たちなど、震災後、このような人たちの存在が浮き彫りとなって、自分の運命を受け入れて「生かされている」を感じる中で懸命に生きている人たちが日本の本来の侍像であることをもりけんさんは本で書かれていて、この一人一人の人たちの中にももりけんさんは観音さまを見ていたと思いました。大変な被害の中でも受け身で、ビジョンを持たなくて、運命の中で生かされていることを感じている一人、一人の観音さまが被災地にいたことをもりけんさんは感じていたと思いました。私自身もこれまでに最後まで運命に抗するような西郷隆盛のような侍像に憧れを持っていたのですが、このような侍像はこの本を読むことで吹き飛びました。「生きているだけでいい」と一瞬でも感じる時、そこへは観音さまがいると思いました。
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